劉備の身長

三国志演義』毛宗崗本第1回
  那人不甚好読書。性𥶡和、寡言語、喜怒不形於色。素有大志、専好結交天下豪傑。生得身長七尺五寸、両耳垂肩、双手過膝、目能自顧其耳、面如冠玉、脣若塗脂。中山靖王劉勝之後、漢景帝閣下玄孫。姓劉、名備、字玄徳。
(中央研究院・漢籍全文資料庫から引用)↓
http://140.109.138.249/ihp/hanji.htm

 実はこの部分、校訂されている。毛宗崗本数種(排印本・影印本を雑多に)を見ると、すべてここの劉備の身長は「八尺」。
 無論、『演義』における劉備の身長は正史である蜀志・先主伝が根源だから、七尺五寸が「史実」としては正しい(そもそも毛本を除けば、『演義』諸本でも「七尺五寸」になっている)。だからこそ、先に挙げた中央研究院の電子テキストは七尺五寸に改めているし、『演義』の邦訳も、岩波文庫版を除けば「七尺五寸」になっている。また、『演義』中で劉備の身長に関する言及は、この第1回の他に、第35回にも出てくるが、ここでは毛本も「七尺五寸」としている。
 それでは、この第1回の「八尺」が毛本の単純ミスかというと話はそう簡単ではない。
 というのも、この劉備の登場に続いて登場する張飛関羽のうち、関羽の身長も毛本は改めているから。
 毛本の底本である李卓吾批評本では、関羽の身長は九尺五寸、髯の長さは一尺八寸になっているが、毛本はこれを「身長九尺、髯長二尺」に改めている。つまり、端数を使わず、切りの良い数字にしているわけ。
 となると、劉備の「八尺」も、関羽と同じような意図で改変さている可能性が高い。じゃあ、何故端数を使わないか、という肝腎な理由はよく判らないのだが。

諸葛亮の北伐と姜維の北伐

本院の方で地味に李卓吾批評本と毛宗崗本の回目の比較なんぞやっていますが、毛宗崗本の変改で見えにくくなったことを指摘。

昨日のエントリで、『三国志演義』そのものが「三」という数字に支配されているという金文京先生の指摘を紹介しましたが、『演義』の諸葛亮自身も「三顧之礼」に始まり、「天下三分の計」「三気周瑜」とやはり「三」がまつわります。
そーゆー視点で見ると、諸葛亮の北伐を「六出祁山」(この言葉自体は『平話』にも出てきますが)と表現するのも、この延長線上にあるんでしょうね。劉備の「三顧之礼」に報いるため、その倍の「六」度、中原に挑んだ、と。惜しむらくは李本の回目ではいちいち「諸葛亮二出祁山」「諸葛亮三出祁山」……「諸葛亮六出祁山」と書いていくのですが、毛本ではこれをほとんど削除してしまっていること。対句を優先する限り仕方がないんですが。
ただ、諸葛亮の「六出祁山」は『平話』の段階で見えているように、かなり早くから成語化しているようで、諸葛亮の北伐が六回という認識は割と広まっている気がします。
これに対し忘れられてるのは、姜維の北伐の回数。諸葛亮の遺志を継いだ姜維の北伐はなんと九次に及びます(『演義』の話ね)。李本の場合、回目そのものには出てきませんが、第107回「姜維大戦牛頭山 一犯中原」のようにいちいち北伐の回数が註記され、これが第115回「姜維避禍屯田計 九犯中原」まで続きます。
一方。毛本は諸葛亮の「六出祁山」同様、姜維の「九犯中原」も回目からは綺麗サッパリ消えてしまっています。第120回最後に置かれる長詩の中に「姜維独憑気力高、九伐中原空劬労」という句があるので、本文から抹消されているわけでは無いんですが。「三顧之礼」「六出祁山」「九犯中原」という展開が薄れているのは何か惜しいな。

井波律子『中国の五大小説(上)』評(其之四)

そろそろ終りにするつもりですがもう少しだけ。

先に関羽の呼称がずっと「関公」になっているという記述が「嘘」だと指摘しましたが、井波先生ご自身、14年ほど前はちゃんとこう書いてました。

演義』はこうして盛り場の講談のみならず、より土俗的な民間伝承をも吸収し、畏敬をこめて「まつろわぬ神」としての関羽像をも、その物語世界のなかにとりこんでいった。ちなみに、『演義』では、関羽は関公と呼ばれ、あるいはあざなの雲長を用いられていて、本名を直接名ざしすることはほとんどない。『平話』にもすでにこの傾向がみられる。神になった関羽に対する深い敬愛を示すものである。(井波律子『三国志演義』、p.110、岩波新書348)
ここでは字の「雲長」をも『演義』が用いることをちゃんと書いているのになぁ……新著の方が退歩してるよ。
ただし、この岩波新書三国志演義』でも書誌に対する認識が甘いです。

最初の版本である「嘉靖本」以後、さまざまな版本が世に出たが、十七世紀後半、清の康煕年間に毛声山・毛宗崗父子によるいわゆる「毛宗崗本」(毛本)が刊行されるや、他の版本を圧倒して、これのみが広く行なわれるようになった。(前掲『三国志演義』、v頁)
毛本が刊行されるや、他の版本を圧倒したかどうかは現在も議論の分かれるところですが、それはさておき、ここまでの記述は問題ありません。『中国の五大小説(上)』では嘉靖本刊行後20〜30年で通行本が出たかのような書きぶりよりは餘程精確です。問題なのは続く箇所。

「毛本」は、「嘉靖本」にもとづき、その史実の誤りを正し、わかりにくい箇所を書き改めるなどの改訂を施したうえ、要所要所にコメントをつけたもの。(同前)
毛本の底本は嘉靖本ではありません。ついでに言うと、毛本の改訂は「史実の誤りを正し、わかりにくい箇所を書き改める」程度で済まない箇所がかなりあります。この部分から推すに、井波先生は嘉靖本を通読しておらず、古めの先行研究のみに基づいて書誌データを記しているようです。
ただ、一言擁護しておくならば、井波先生が『三国志演義』を出版された90年代前半は『三国志演義』の版本研究が急進展していた時期であり、これをフォローできていないのは、やや仕方がない面はあります。
最後に、『中国の五大小説(上)』に戻ってもう一つだけ。

魏・蜀・呉の三国の物語で、中心になって活躍する劉備関羽張飛の三人。まさに「三」づくしです。この「三」という数字が演義世界では重要なのです。「一」では物語が動かないし、「二」では組み合わせが決まってしまい単調になりがちですが、「三」になると変化が出てきます。三つの国がつねに組み合わせを変えながら覇権を争うさまを描くことで、ふくらみと動きが生まれてきます。三国のなかでも。「三」人が中枢をかためているのは劉備関羽張飛の蜀だけで、魏と呉にはそれがないのも面白いところです。(『中国の五大小説(上)』、p.14-15)
この指摘の原型になったと思われるのが、金文京『三国志演義の世界』(1993年、東方選書25)にある記述です。

三国志」の面白さの秘密はなにか、と問われれば、色々と答えようはあるであろうが、なかでもまっさきにまずあげねばならぬもの、それは「三」という数字であるにちがいない。こころみに『三国志演義』を開いてみられよ。そこでは「三」が要所要所で、巧みに話のなかにくみこまれていることに気がつくであろう。
 題名は当然として、まず桃園の三結義、いやその前に張角張宝張梁の黄巾三兄弟が出て先駆けをなす。ついで、「虎牢関三戦呂布」「陶恭祖三たび徐州を譲る」「屯土山にて〔土山に屯して、か〕関公三事を約す」とつづいたあとは、言わずと知れた「三顧草廬の礼」に「三分隆中の策」、ついで「荊州城にて公子三たび計を求む」。そして赤壁の戦いが三江口で行なわれたあとにほうほうのていで逃げる曹操が三たび笑い、ついで孔明趙雲にあたえた三つの錦嚢の計、「孔明三たび周公瑾を気(いか)らす」、後半のやまば孔明の北伐では「諸葛亮三城を智取す」、最後は「姜維一計にて三賢を害す」でしめくくられる。作者が小説のなかで、意識的に「三」をつかっていることは明らかであろう。(金文京『三国志演義の世界』、p.11)

金先生の方が面白いのも問題ですが(笑)、より大きな問題は次のような記述があること。

三国というひとつの歴史的時代が、後世の人々からこれほどまでに愛され、語り続けられたのも、やはり「三」という数字と無縁であったとは思われない。宋、元代の講談のなかで、歴代の興亡のさまを語ったものを特に「講史」とよんだが、それはおおむね戦乱と分裂の世をあつかったものであった。平和で治まった時代の話などは、聞いて面白いというものではないであろう。しかし、分裂の乱世がいかに面白いとはいえ、あまりにも複雑に多極分化してしまっては、話としてまとめにくい。逆に両雄対決というのは、ともすれば単調におちいるおそれがある。とすれば、その間の三つどもえぐらいが、もっとも適当な規模ということになるであろう。(同前p.14-15)
「二」が「単調」という指摘が完全に重なります。「剽窃」というのは大袈裟ですが、井波先生が金先生の著作を読んでいないとはちょっと考えられないので、せめて参考文献として挙げておくべきでは。
そもそも『中国の五大小説(上)』では、「主要参考文献」として毛宗崗本の中国語原文と『演義』の井波訳、小川環樹・金田純一郎訳、立間祥介訳が挙げてあるだけです。新書というものがそういうものだと言われればそうかも知れませんが、著述の態度としてどうなのかな、とは思います。

他に羅貫中の問題とか気になる点は幾つかあるのですが、これについてはちゃんと資料を検討してから本院の方で書こうと思っています。